これまでとこれからも

インタビュー

政治家(議員)になった動機(きっかけ)は?

大学卒業後、26年間、デイリースポーツ社、時事通信社と報道機関としての大手2社でジャーナリストを経験。記者として、客観的に加わるだけでなく、現場で、とも考えて50歳で転職。スポーツの分野の日本の統括組織のひとつに入りました。2012年6月に、その当時、務めていた財団法人日本ボクシングコミッション(JBC)を、何人かの仲間とともに懲戒解雇(のちに撤回され、円満退職。現在もJBCのHPで確認できます)され係争となったことが政治家への転機です。国内の一スポーツを管轄する組織でさえ、雇用に関して、これか、というのがありました。文部科学省傘下に当時、JBCはあったので、政治の力で正常化を図れないか、と考えました。その際に、知り合いになった地方議員の方などの話で、地方からしっかり政治をやっていく方法でも、中央(国)まで行きつくことが出来ると知り、地方議員から丁寧に、と考えて、現在に至ってます。

政治家(議員)として心掛けているところ。

有権者の方に、出来るだけ近い位置にいるということ。これは、政策的にも、自分の体、という物理的にも、です。多くの方の目に触れ、話してもらえるよう、日夜、最寄りの鉄道の駅(阪急京都線・桂駅中心)に立つなど、しています。地域活動により、地域に貢献するのも、やるべき義務だと思っています。住まいのある学区の消防分団員を、地元連合自治会の役職なども務めさせていただいています。家族、学生インターンらとともに、「子ども食堂」や「プレーパーク」(冒険遊び場)など、にも多面から活動に参加させていただいています。
同時に、金銭的にクリーンであること。議員報酬は、税金が原資であることを忘れることなく、大切に考えること。『身を切る改革』と称される、被災地などへの寄付することで、賞与のアップ分を受
け取らない、など他の会派の議員がやらないことをやらせていただいています。

政治家として遣り甲斐を感じることは?

府民の方々からの地域の課題を、陳情なりを行政側と話し合っていく中で、解決していくことが出来た時。
たとえば、地元の京都市西京区の千代原口付近。目の不自由な方のための点字ブロックや電柱が、道路拡張整備の際に見逃され、歩道の真ん中を通る、置かれるままとなっていて、目の不自由な方が電信柱に当たる危険なことになっていたものが、私の提案などで2016年3月末に直されたりしたのを見たとき、小さなことかもしれませんが、よかったなあ、と感じました。

力を入れている(入れていく)政策は?

スポーツとまちづくりと福祉。
①スポーツ「スポーツ王国・京都」を府も標榜している以上、それに見合った施設・組織をきちんと作り上げることを、行政側に提案し続けています。
②まちづくりは、京都市西京区の公園面積が、他の京都市内の10行政区に比べて広いことに着目して、公園のよりよい活用を訴えている(プレーパーク=冒険遊び場は、訴えが実現へ)ほか、鉄道の高架下事業、インフラ、特に、西京区は、京都市内で唯一、地下鉄が通っていない行政区だけに、それに代わる新交通システムの導入を2015年に議員にえらばれて以来、訴え続けています。
③福祉は、高次脳機能障害、うつ・自殺対策、ギャンブル依存症、と他の議員がほとんど手を付けていない分野に関して、府の対応をよりよくするべく訴え続けてきました。これからは、少子高齢化に対する対策を考えていきたいと思っています。

政治家にならなかったら何になりましたか?

50歳まで、私はスポーツ中心のジャーナリストとして26年間、大手メディア(デイリースポーツ社、時事通信社)で記者・編集委員として働いてきました。日本ボクシングコミッション(JBC)でも、広報誌の編集に携わっておりましたし、政治家になる直前も、ネットメディア(YAHOO系列の「THE PAGE」のライター)をやっていました。2005年には、高校の同期生で戦場カメラマン宮嶋茂樹さんをモデルにした小説「めっちゃピンぼけ」も上梓。おそらく、文筆業で生計を立てていたと思います。

有権者(特に若い方達)へのメッセージをお願いします

誠実に、みなさんに寄り添えるようにどうすればいいか、日夜、考え行動しています。みなさんも、おかしい、と思ったことは、私に伝えたりすることで、放っておかないでください。解決する方法は、あります。政治家は、そのためにいます。どんなことでも、あきらめない。生きていれば、何か先にある。先の見える、とくに『変わりっこない』とかかれた「地図」は燃やして、前に進んでほしいのです。そのための、手助けをするのが政治家の役目のひとつだと私は思っています。